昭和40年06月09日 朝の御理解
目には見えないが神の中をわけて通るおるようなものじゃと、目には見えないけれども、世の中をわけて通っておるようなものじゃと、それは、畑で声をかけておろうが、道を歩いておろうがと言うておりますね。畑で道畑で声をかけておろうが、道を歩いておろうが、神の中をわけて通りおるようなものじゃ。信心させて頂くものはこの思いを実感として段々強く、深く分からせて頂くこと以外にございません。いつも、ね、
いつも神様のお働き中に、私共があるのだと。それは例えば畑で声かけておっても、道を歩いておってもというのですから、どこででもということなのです。いつでもということなのです。ね、そうゆう神様のお働きの中に私どもは、こうして安住のおかげを頂いておるっていうこと。昨日突然小倉の教務所から日吉という次長の先生が見えられまして、本当にいわば、ゆめのようなことでございました。
この三月からそのことをお願いしてございましたんですけども、いつというてその来て頂くことができん。来て頂くことが出きる、出来ないということは、ここに教会をえ設置を認めるか認めないかということにかかわることだったものですからね。で、昨日はもう突然のことでもございましたけれども、見えられましたし、善導寺の親先生もだから、来て頂きまして、昨日はおかげを頂いたんですけども。
昨日はちょうどですね、その総代さん方もほとんど、それからそれに関係の方達が、全部椛目に集まっておったことでございます。それが、それぞれの、それぞれの用事で集まってたんです。誰々が見えるけん、はようちょっと来てくださいってことがないんですね。本当に、今日もう一回会合がある、あるのですかというぐらいにみんな集まってたんです。総代さんたちを始め、それに関連しなければならない。
それに関係を持っておる方達が全部集まっておった。そしてもう、何というですか、実に神乍らにもう、こちらが思う以上なことがです、話もとり決められ、ことを進んでまいりましたけれどもです。そうゆうようなことがです、お互いの(こそ?)椛目だけのことではない、お互いの上にも、そうした働きがいつもあっておる。たったそれだけなんですけれども、それがどこからそうゆうふうにした、丁度タイミング良くおかげを頂いたっと。お繰り合わせ頂いたと、言うだけに止まらず、ね、
神の中をわけて通りおるようなものじゃという、私は実感、神様の御守護の中にいつもがあるのだと。計画も無ければ、人間心も入らない。そうゆう例えばおかげを、お互いの家庭の上に、自分の身の上に頂いてまいりましたら、心配はないですねー。それはあれよこれよと、手立てをいしましたり、心配をいたしましたり。それはなぜかというと、神の中をわけて通りうるようなものじゃという、お互い実感がまだ無いからだと、いわなければなりません。
神の中を神様のご守護を受けてのだから、というて口で言うたりしておるだけじゃなくて、思うておるだけではなくてですね、いわゆるこうする事が本当だという事を私どもが日々信心に取り組ませて頂き、教えに取り組ませてさえ頂いておればです、物事というのは物事の一切がですそうゆう神様の特別な御守護。しかもその御守護がです、なんと神様の働きの一分一厘間違いのない事であろうかと、言う様な働きの中に。
しかも内容が大変こんがらったことでございますから、申しわけございませんけれども、もうとにかく人間心でもう解決できることではないような問題がです、昨日は解決のおかげを頂いておるんですからね。もう何もかにもひと所に集めておいてから、と神様は働きござったといった感じなんです。ね、ですからいよいよ私どもがですね、どこにおっても、何をしておっても、神様の御守護の中にあるんだと。
神様は見とって下さるんだ、聞いとって下さるんだという実感が強ければ強いだけ、お互いが信心にならなければおられんのです。いや、そうしなければバカらしいんです。神様その、今の働き、申します働きがです、みんな人間が決めたものと、みんな人間の決めたもの、そうゆう働きになるまでには、みんな人間で決めても、どのくらいの働きがあっておるやら分からないということです。
ですから、その働きに対して私どもは、分かりません肉眼をもって分かりません、分かりませんけれども、私の例えば願いが願いということに対しては、神様の働きがあっておるんですから、そのことに対して有難うございますというお礼を申し続けなければならなん。特に御取次を頂かせて頂いたら、もう御取次を頂かせて頂いた、そこから神の働きが始まるのですから、目には見えませんよね。
目には見えませんけれども、もうお取次を頂いたらもうそこから神の働きが、特別の働きがあっておることを分からせて頂き、それを信じさせてもろうて。お働きを頂いておることを有り難い。信心しておってです、変わった事が起ってきたら、有り難いと心得て変わったことが起ってこなくても、そうゆうお働きが頂いておるということ。ましてです。変わったことが起ってきたら。
おかげと心得て、いよいよ信心せよとこう教えておられます。変わったことというのはです、お願いしておるのに右に願っているのに、左に行きよるごとある、といったような思いのときでもです、ね、例えば病気なら病気のお願いして頂いたら、かえって熱が高こうなった。かえってここが痛むというような場合でも変わったことなのですから、お礼を申し上げていけばいいのですけれども。
お礼を申し上げきれずに、変わったことが起ってくるともう、慌てたり、ふためいたりしてあーではなかろうか、こうでもなかろうかと心配して、そして人間心を使う方へ動いてしまう。神の働きを、こう、無にしてしまうようなことが、沢山あっておらせんだろうかと、こう思うのです。ね、もうひとつ、どこにおりましても、何をしておりましても、神の中をわけて通るうるようなものじゃと。
私そこんとこをいつも実感で感づるようなことは、いつも何かしらんけれども薄氷の上を渡っておるような、もう神様が見ておって下さる。なぜってこちらが立派じゃないもんだから、怖いような感じがする。薄氷の上を渡っておるような気持ち。実感として。だから進んでおらなければおらないということにもなるんです。または、なんか、竹やぶ中を分けてあ、ね、通りますよ時に、ザワザワと音がいたします。ね、
竹やぶ中を分けて通っておるような実感、なんかその、竹やぶのザワザワという音を聞く聞くような実感を持って、私どもはおかげを頂いていかなければならないと。御信心だけで、ということでありません。ね、お広前だけでということでありません。もうどこにおってもです、それこそ畑で肥えをかけておっても、道を歩いておっても、神様のそうしたもう、御守護の中にあるんだという実感。
そうゆう働きの中にある、という実感。そこにです、ね、一分一厘間違いのない神の働きを、そうゆう心でキャッチするのです。昨日みなさんも色々ご心配を頂いておりました、その教務所の方からのおいで頂い、向こうの方からおいで頂くことになってです。しかも突然、おかげを頂きましたことを、みなさんにも聞いて頂くと同時に、そのその中にです、ね、目には見えんけれども、頭では知らんけれども、ここまでになるまでにどのくらい神様の微妙な働きがあっておっただろうかと。
昨日も親先生と、それこそ全部とお話し合いをさせて頂く中に、もう何て素晴らしことなのかと思わなければおられないことばっかりでございました。あれも解決、これも解決これもうどうゆう風にして表現して、親先生にも分かって頂こうかと心配しておられたことがです、もう何かすうっとこう抵抗なしにね分かって頂いたという気がするんですよ。ね、そうゆうおかげを頂きましたということがです。
おんみなさんの上にも、そうゆう同じような働きがあっておるということ。ね、ですから、あー変わったことが起ってこなくても、お働きを頂いておるのであり、ね、変わったことが起ってきたら、いよいよ神様がもう身近に働き初めておられるのだというような実感を持って、日々信心生活をさせて頂ければならんと思うですね。
おかげを頂きますように。